昭和52年10月08日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けことができるぞ。」

 いかに神の機感に叶た氏子が少ないかと言う事が、金光教始まって百十八年、こういう素晴らしい御教えを頂きながら、こういう素晴らしい教祖様を頂きながら、神の機感に叶た氏子が育たない出来てないと言う事は、実に残念な事だとこう思います。もうそれこそ沢山の人が助かり、ご縁を頂いておかげを受けると言う事は各教会でもまた、昨日はご本部参拝でしたが、ご本部参拝さして頂いてもそれこそ、あれだけ沢山な人がやはり御神縁を頂いて助かっておる。
 でその中になら親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と、段々信心も本当な事になってきて、神の機感に叶た氏子としてのお取立てを頂いて、教祖様の教えておられる御教えを実証していけれるという、信者はもう本当に少ない、ごく希だと言う事です。それはもう百十八年にもなりますから、もう二代だ三代だ、四代目だと言う様な信者は沢山おります。信心が続いておる。ところが続いていないのが、どのくらいあるか分からない。一代切りで終わっておる。
 一代と言うても、ただおかげだけで終わっておると言う様な人は、どの位あるか分かりません。本当に御神縁を頂いた人達が、みんな神の機感にかのうた氏子、としてのお取立てを頂いたら、愈々神様の願いである、言うなら神様の願いの理想郷である所の、一年まさり代まさりのおかげが受けられんのですけれども、どこの辺で間違えばそういうおかげが受けられるのかと。結局子供が孫がというよりも、結局自分自身がおかげを頂き、頂けばと言った様な所に、終わっておるのではなかろうかと思います
 。神の機感に叶て欲しかった。神様のお心に叶たそれには、人間も出来なきゃならん、達者のおかげも頂かなければならない。いわゆる貧争病のない世界に住まわせて頂かなければならない。だから貧争病のない世界から、もう一つ向こうにあるところの、いわゆる真善美に輝く世界。そういう真善美に輝く世界に住むというか、そういうおかげを受けると言う事が、神の機感に叶たのじゃないかとこう思います。
 そこで真善美のおかげの頂けれる信心とは、先ずほんならその真善美の前である所の、貧相病のない世界に住まわせて頂く事の為にも、神の機感に叶た信心を、さして貰わなければならんと言う事になります。信心をしてお徳を受けるという事。昨日ご本部から帰りましてから、、若先生が今度の百年祭が、後もう三、四年ですかね。今ここからひと列車お参りをさせて頂く願いを立てて、まあ今からぼちぼち運動を始める。早くからやはり募集をしてしかし出来ると思うですね。
 立教百年祭にはまだ椛目の始まって直ぐの時分でしたけど、二百五十名参っておりますか。その代わりにあん時には一緒に参られませんでしたから二回に参りました。まだ記録が残っております。だからやっぱやろうという気になりゃ出来るわけですね。まああの時分が二百五十名だから、一列車二列車でも出来るかもしれませんよね本当は。まだこれから三、四年ありますし、段々上昇の一途をいわば辿っておる、現在合楽のことですから、まあだどう言う事になるか分かりません。
 でそんなことを言ってましたから、一列車が六百名だそうです。六百名あれば合楽だけが一列車でお参りが出来ると言う事なんです。だから恐らく出来るでしょう。その事を私お願いさしていただきよりましたら、子を産むは「わが力で産むと思うな」というみ教えがありますよね。子を産むはわが力で産むと思うな。本当にそうだと思います。例えばほんなら御本部参拝をさして頂く人達が、一列車もいわば出来ると言う事でも。自分の力我力で沢山な人を集めようと思うな。
 みな神の恵むところであるぞと言う事を土台にしての信心じゃなからなければならないと言う事が分かります。どうでもこうでもと例えばいかに教会長が弾んでも、幹部役員が弾んでもです。ただそれが力みだけでは出来ません。と言うてなら力まんで良いかというとそうではない。その力みそのものが神様のおかげで力まして貰うというもんでなからなければいけない。
 これは女性の方でなからなければ分からん事ですけれども、なら子供を産むと言うても、まあだ本当にいうならば、産む時間が来てないのに、幾らうんうん言うて気張ったところで駄目だという事なんです。もう自ずと気張らなければおられないような、私は時期があるんだと思います。例えばお便所に行きたいからと言うて、まあ行こうごつかなばってん、今んうち行っとこうといったっちゃ、出らせんとと同じ事です。やはりその催しがなからなければ出来ません。お便所に行きたいなあとか。
 例えばお産をするでも、そうじゃないかと私は思います。力まんでよいと言う事は決してない。さあまあひと気張りという、その気張らしてもらう、いわば雰囲気雰囲気というですか、その状態がですもう気張ろうと思わんでも、自ずと気張ってこれると言う様なおかげを頂くと言う事だと思うんです。そこでならここで私が、以前御教えに頂いております、「人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力おのずから湧く」と言う事になるのじゃないでしょうか。我力ではいかん。
 自分の人間心とか人間の力だけではのが分かった。そこで自分の人力と言った様なものを捨てて、神力にただひたすら縋って行くという。神様のおかげを頂かなければ、出来ることじゃないという信心。そこから催しに催しが始まって。人力はおのずから湧いてくる。それが本当な力みだと思います。人力はおのずから湧いてくる。その人力が私は素晴らしいんだと思うんです。そのそこんところのおのずから湧くところの人力によらなければ、信心が有難いものにも、楽しいものにもなりませんです。
 本当に神様のお恵みを受けなければ、出来る事じゃないんだなと言う事。まあだ時期も来ないのに、いうならば一生懸命力んだところでです、それは骨折り損のくたびれもうけ、そういう例えば、我力的な信心が多いところにです。親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と、愈々末繁盛のおかげに繋がってこないのだと。だから神の機感に叶う氏子というのは、結局神様のおかげを知って、神様のおかげをおかげと。
 知りそれを現していけれるところに、神のおかげを知らぬから、互い違いになるとここで教えておられる。神のおかげを知ってからの信心でなからなきゃいかん。それには言うなら人力というかね、人間心というかそういうものが、いわば無くなっていかなければならない。そこから神力にすがらずにはおられない。いうならば神ながらな生き方というものが、そこから出来てくるわけです。神様のおかげを頂かなければ出来ることではない。今度のご本部参拝で、私が頂きましたのがそう言う事でした。
 神露と言う事はですね、神露というのは神の露と書いてある。ご本部に神露というお酒がございますね。あの神露です同時に、神露と言う事は進む路と御理解に頂きました。だから今の合楽は、もうただ前進あるのみ、ただ前に進む以外はない。その願いだけなんです。いわば進め進めで進んで行く事だけなんです。その進め進めも、今日の御理解から言うと、ほんなら人間心我力で、進め進めでは出来ません。
 その進め進めと進まずにはおれない、いうならば催しが始まって来なければならない、お互いの信心に。進まずにはおられない、そこでいうならば合楽理念を持ってするほかはないという事になるのです。全ての事が商売の繁盛のおかげを頂くのにも、もう合楽理念を持ってするほかはありません。お百姓さして頂くでも。合楽理念を持ってするほかは無い。そこに、合楽理念を持ってする外はないという信心には、必ずそういういわば、催しが始まってくる。
 いわゆるおのずから人力が湧いてくる。そこに神露のおかげが頂かれる。神の恵み恵みの露というか。神様のおかげで道を開かせてもらう御道であってこそ、初めて子にも伝わり、孫にも伝わると言う事ではなかろうかとこう思うんです。自分の人間心を持ってだけで、ただ信心が出来ておるというなら。どれだけ沢山の信者がおっても、神の機感にかのうたと言う事にはならない。日まさり月まさり。年まさり、代勝りのおかげに繋がらない。それにはどうでもだから、神様のおかげを頂かなければならない。
 その神様のおかげを頂く、神様のそういう働きが始まる、そういう催しが始まる。神様のご発動が始まるためにはです。いうならばそんなら、その発動が始まるその発動のスイッチを、どこかひととこ押せば良いのである。ずうっと発動機が回って。あっという間に、人間の何十倍もの働きが出来るようなもの。そのいうならばスイッチを探そうともせずに、ただそれを一生懸命回そうという、それが人力である。だからその人力を捨てなければいけん。人間心を捨てなければいけない。
 神様におすがりするよりほかにない。ほんなら神様にすがると、どう言う事になってくるかというと、どうぞお願いします、お願いしますだけではいかん。やはり昨日も頂きますように。ほんなら神露というてもです、進むほかは無いと言うてもです、神様のおかげを頂かなければならない。ほんなら神様のおかげを頂くためには、ほんなら改まるより他にはない、研いていくより他にはないという事になるのです。いうならばいよいよ合楽理念を基にした、生き方をしなければならないと言う事になる。
 そこからいうならば、神様のご発動が始まってくる。末永先生がビリグイに参りましてから、一週間目ぐらいでした。隣の方が見えられて夕べはここは、何か発動機が発動機の音が、えらいしたが何かが付けっぱなし、電気が付けっぱなしであったじゃないかと言うて尋ねて見えた。けどもそこにはほんなら、発動機なんかもあるはずがない。そん時にあの末永先生が直感しております。
 はあもう愈々、神様のご発動が始まったなと思うております。それからもう三日後にはあちらのブラジル人の人が尋ねてくることになり、そのブラジル人の人が丁度、中学校の校長さんであったと言うので、もう次から次へと広がっていった。神様のご発動がもう、十日目には始まったと言う事になります。とても人間の知恵力で出来る事ではない事が、なら出来ておる。ほんならその神様のご発動が始まるまでには、なら先生がどういう信心をしておったか。
 勿論ここでの修行もさることながら、あちらへ行って一週間それこそ行った晩に、例えばあの緩みがない。神事祭を仕える。それから毎日一日中、誰もお参りのないお広前に、一生懸命御祈念しお縋りさせて頂いて、おかげを頂いて。来る日も来る日も言うなら前の壁を見ながら、一生懸命お縋りしておる。そこから言うなら神様のご発動。そこまでに催しに催されておるから、いうならば親子その当時はまだ、四人でしたから親子四人で、それこそ見も知らない他国。
 しかもブラジルの、まあ日本人が沢山おるというサンパウロから、八時間も奥に入っていかなければならないと言った様な所に行ける。そういう弾みというものが出てこないのです。大概のものだったら、ほんなら私が一人で行って道が開けてから家内も呼ぼう、子供も呼ぼうと言う事にしかならんのでしょうけれどもね。そういう催し催されておるものが、なら合楽で修行中にあったから、おかげを頂いておるのです。それこそ神馬にまたがって、蹴散らしていくような勢いも出来てきたわけなんです。
 それまでにほんならどれだけ、まあ今合楽でいう言葉でいうならば、合楽理念を本当にマスターし、合楽理念を日々行じきっていっておったかと言う事が分かります。そこから人力ではどうにも出来ない、いうならば働きが、神様のご発動となって現れて、そしていわゆる言葉も通じない。黒人の人やら白人の人やら、現地人の人達が助かる事になってきた。こげんとば人間の力で、なら本部で言われるのに、とにかくビリグイと言う所には、とても普通の行ける所では無いです。
 だから農業の移民団か何かに入って、農業なら農業でもしながら、そしてぼちぼち道を開いて行かなきゃいけないと言うような、人間的な考え方であったら、それこそ五十年たったって道が開けてないという事実があるじゃないか。ビリグイだってサンパウロだって。だから人間の力というものは、本当に微々たるもんなんです。だから神様のご発動を、本当に頂くだからあっという間、それこそスイッチをそこに、ピシッと探し当てて、そしてそれを押しただけで、ごうっという発動機が発動が始まっておる。
 その神様のご発動が始まるような信心を、私は神の機感に叶うた信者だと思います。信心が手篤いのが真の信者だと仰るが、毎日日参り夜参りをさして頂いて、御用が出来ておるから、ほんなら信心が手篤いのではない。信心が手篤いというのは。もう極言するなら合楽理念を行じて行く人であって初めて。真の信者だと言う事が言えます。ですからどうでも言うならば、そういう催しが起こって来る様な、どんな時であってもますます勇気が元気な心が出るような信心を、日頃しておかなければならない。
 そして今日神の機感に叶うた氏子というのは、そういう信心を言うのだというふうに思います。だから神のおかげを知らん訳にはいけん。もう分らさずにはおかん。末永先生が言っておるように。この前から霊祭がございました。御霊様が百八十柱サンパウロから五十柱の御霊様のお祭りをさせて頂いたとこう言う。その前一週間余り急にお参りが減った。日に外来からお参りしてくる人が二十人か、三十人ぐらいになってしまった。そして気が付かせて頂いたのは、自分が我力で行きよるなと言う事が分かった。
 少し自分の力を思うようになってきた。そこでお知らせを頂いた途端にその事が分かって。親先生のおかげを頂かなければ、祈りを受けなければという思いが出来てきたのと同時に、また元のお参りがあるようになって。あの手紙には日々普通、今百名からのお参りがあるという風に言っております。だから人間にその慢心が出てくるとね、もう自分の我力です。自分の我の力を信ずるようになるです。我の力を信ずるようになると、信心はもうそこで留まってしまいます。
 どこまでも貴方のおかげを頂かなければ、いわゆる神様のおかげを知らぬから、互い違いになってくるのです。自分の力のように思うてくるから、お参りが減ってくる、おかげが落ちてくるのです。神様のおかげが愈々分からせて頂く所から、神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。神のおかげを知って互い違いではない素晴らしいタイミングの中に、日々が送られるお繰り合わせを頂く。そこにいわば神のおかげを知ればです。無事達者で子孫も続くと仰るのですから。
 愈々神様のおかげを頂くために、なら人力を外さなければならない。人力を外すという事は、神様一心にならなければならない。いや神様のおかげでと信じられなければならない。神様が信じられる。そこから湧いてくる力は、これはいうならばそこから湧いてくる所の力は。人力ですけれどもそれは。神様のおかげに催しに催されての人力ですから、おのずと湧いてくる、我力ではないおのずから湧いてくる力ですから。そのおのずから湧く人力による信心生活が出来るようになる。
 はあ苦しい辛い、そういうお参りの時には、まだ人力なんです。神様のおかげで催しに催されて、朝目が覚める朝参りが出来ると言う様なおかげを頂いてです。私は初めて神の機感に叶たと言う事になるのじゃないか。合楽の方達でも一人残らず、そういう神の機感に叶た信心をさして頂いて、あなた方の時代よりも子供の時代孫の時代に。広がって行く様な信心を身に着けていきたいと思います。誰でも年まさり代まさりのおかげを願っておらん者はありませんけれども、自分の信心をもう一遍検討してみて、神様のおかげを愈々知れなければ。神のおかげを知らぬから互い違いになるのです。
   どうぞ。